二年の二(学期)は、席替えから(始まった)。(くじ)を引いて、私が引いたのは十六番。(黒板)の(座席表)で、その十六番目は窓から二(列)目のいちばん(後ろ)だった。机を引きずって(移動)すると、(となり)の席に、(知らない)子が座っていた。
ミラ、と名札に書いてあった。オーストラリアから来た(留学生)で、一年いるという。担任の川口先生は、五十近い(中年)の人で、(教室)の(前)で「となりになった人が、いろいろ助けてあげて」と言った。私を見ていなかったけれど、私の(こと)だった。
一時間目の(前に)、(出席)を取る。先生が名簿を(読んでいって)、私の次で(止まった)。「ミラ……ホプキンズさん」。発音が、(少し)(違う)。訛りというより、(母音)がひとつずつ前に寄っていて、本人の名前として届いていないらしかった。ミラは(教科書)を見たまま、返事をしなかった。先生がそれに(気づいて)いないことは、たぶんミラの方が先に気づいていた。
二度目に(呼ばれた)とき、私は(机の端)を小さくたたいた。(大きな音)は出せないから、(指)の背で二回。ミラが顔を上げて、あわてて「はい」と(答えた)。先生は次へ(進んだ)。ミラは(不安そうに)、自分の名札を指でなでた。もう少し待ってから教えればよかったか、と私はあとで考えた。
(休み時間)、ミラは(一枚)の紙を机に広げていた。年間行事の(予定表)だった。(毎年の)行事が月ごとに(並んでいる)。体育祭、文化祭、三学期の球技大会。年1回だけある創立記念日の休みも、どこかに(混ざっている)はずだった。漢字が小さく、行が(途切れない)ので、どこが何の日なのか、全くの迷路だった。
「これ、(どれ)が休みですか」とミラが(聞いた)。赤いペンを借りて、私は休みの日に(丸をつけていった)。「ここと、ここ。この週は授業があるけど午前で(終わる)。例外は、この一日だけ」。数字の区切りに(カンマ)が入っていないのも、読みにくい(理由)の一つだったらしい。それで私は、表のとなりに数字だけを書き直した。月と日、それだけ。漢字を(取り除いたら)、急に表が読めるものになった。(代替案)というほどの工夫ではない。でも数字なら、言葉が違っても(手がかり)になる。
「こっちの方が(分かる)」とミラは言った。ペンを(置いて)、少し考えてから、「あなたの名前、聞いてもいい?」と聞いた。
私は(自分の名前)を、(声に出して)(ゆっくり)言った。ミラは、そっくりに繰り返した。(一回で)(合っていた)。日本語はまだ流暢ではないのに、名前の音だけは私のものと(よく似ていた)。自分の名前が自分の名前のまま返ってくるのは、こんなに(気持ちのいい)ことなのだと思った。
午後は(数学)だった。(三角形)の(相似)をやっていて、ミラは板書を写すのが追いつかない。私はノートを机の真ん中に置いた。(線)を引いた(図)が、二人の間にある。ミラは図を見て、言葉の方は(その後)に聞いた。板書を(暗記する)より、図を一つ並べて置く方が早い。そういう(判断)だった。授業のあと、ミラは「あの図、(すばらしい)」と言った。たいしたことをしていないのに、大きな言葉が返ってきて、私は少し(照れた)。
放課後、職員室の前で先生に呼ばれた。ミラの奨学金の(書類)だった。(地元)の財団が出している留学生向けの(制度)で、学校の年間(カリキュラム)の写しを(添付)しないといけない。「英語で(説明する)のは(無理)だから、表をそのまま渡してある」と先生は言った。渡された表は、休み時間に二人で見たのと同じものだった。「あれは、本人には読めません」と私は言った。先生は、そうかな、という顔をした。
私は、休み時間に作った(数字)の(表)を、もう一枚きれいに(書いた)。(説明)の文は(つけなかった)。(日付)と、(授業)がある日に丸、ない日に斜線。それだけだ。先生は「生徒が書いた(紙)を財団に出すわけにはいかない」と(言った)。それで私は、職員室の前を通ったミラを呼んだ。先生が紙を(見せて)、「休みはどの日だ」と聞く。ミラは三秒で、三つの日付を(順番に)言った。先生はもう一度、元の予定表を(渡した)。ミラは(黙った)ままだった。「……こっちを出そう」。先生は私の紙をクリップで書類に(固定した)。
自分の作った紙を職員室に(出す)のは、思っていたより(大胆な)ことで、手が少し汗ばんだ。絶対の(自信)も、(確実性)もない。読める人が一人いる、それだけが私の信念だった。先生が窓のブラインドを(上げる)と、机の上の紙を午後の日が(照らした)。
(次の日)の朝、(先生)は名簿を(開く)前に、ミラの机まで来た。「もう一度、教えてくれないか。発音を」。ミラは(立ち上がって)、自分の名前をゆっくり言った。先生は三回、繰り返した。三回目で、ミラが(うなずいた)。それから先生は、出席を最初から取り直した。前の日と同じ声だったのに、教室の(空気)が少し(変わった)。大きな(出来事)ではないけれど、胸が高鳴った。(興奮)しているのを見られたくなくて、私は窓の(外)を見ていた。
「ああいうことを言う先生は、たまにしかいない」と、休み時間にミラが言った。「わたしの(国)の(学校)では、名前は最後に直してくれる。(卒業)のときに」。(笑いながら)言っていたけれど、(声)の底には少し悲しみがあった。ミラは、こうしてほしいと自分から(求める)ことを、(まだ)一度もしていない。
その週、ミラは昼休みに校内を(見て回る)ようになった。(図書室)、売店、(体育館)の裏、(校門)からいちばん遠い第二グラウンドまで。私は(ついていって)、場所の名前だけを言った。説明は、ミラが自分でしていた。「あそこに(自転車)を置いていいですか」と聞かれて、「あそこは三年生の場所。(こっち)なら大丈夫」と答えた。ミラは、その二つの(違い)を(落ち着いた)字で手帳に書いた。「校則に従わない留学生だと思われたくないから」と、(まじめな)顔で言った。
水曜日、ミラが「(中等学校)のとき、三か月だけ日本語を(習った)」と言った。土曜日だけの集中的な(講座)で、教えていたのは(近所)の幼稚園の(園長)をしていた人だったという。(家庭教師)ではなく、十人が一つの机を(囲む)教室だったらしい。(覚えている)のは、ひらがなと、(あいさつ)と、「もう一回」という言い方だけだ。「わたしはいつも、もう一回って言う。だから(どこでも)(生きていける)」。活気のある言い方だった。三か月の(成果)というだけでなく、(もともと)そういう人なのだろう。
金曜日、ミラが私の机に(小さな)(袋)を置いた。(中に)、消しゴムがひとつ。「(ありがとう)、の(代わり)」。謝罪でも大げさな(感謝)でもない、もっと(軽い)言葉を探している(顔)だった。私は(受け取って)、筆箱に入れた。(うっかり)落とさないように、いちばん奥のところへ。
今、私の筆箱には、使っていない消しゴムがひとつ入っている。ミラは、年間行事の表に自分で丸をつけていく。この学校に(順応してきた)のが、丸のつけ方の(速さ)で分かる。私は十六番の席で、その(赤い)ペンの(音)を聞いている。