四月の(終わり)、アメリカから一年間の交換留学生として来たジェイが、バスケ部に助っ人として(加わった)。(身長)は百九十センチ近く、(学年)は僕と(同じ)二年。僕は十六歳で、ポジションはガードだ。
(初日)の練習で、ジェイは(体育館)の端から端まで五往復して、息を切らさなかった。走り方が(しなやか)で、見ていて気持ちがいい。顧問の宮原先生が「これは(最終的に)スタメンだな」と言った。(部員)は十五人いる。偶然ではなく、(実力)の話だ。
練習そのものには、言葉はあまり(必要)ない。走る、止まる、(パスを出す)。(判断する)のは体で、日本語は要らない。例えば、ディフェンスの位置を(直す)ときも、手で示せば足りる。困ったのは、練習以外のところだった。
うちの部には、「体調チェック表」がある。毎日の練習前に、(長方形)の枠が(並んだ)紙に(印)をつける。(項目)が十二あって、全部日本語だ。項目を読むだけで、新入部員は三日かかる。
項目は、こんな具合だ。(睡眠)時間。(食事)をとったか。筋肉の(張り)。(背中の痛み)。息切れの有無。前日の疲れ。足首の具合。水分をとったか。そういう、体の状態を確認する(欄)が並んでいる。
一番下に、「気になることがあれば、保健室へ」と書いてある。保健室の手続きは、(別の)紙にまとめられていた。(医療)の案内、薬剤師に(相談)する窓口の番号、(心理的な)相談ができる窓口。小さな字で並んでいて、視力のいい人でも(読みにくい)。
ジェイは、その表を見て「全部、(分からない)」と言った。(困惑)した顔だった。印をつける(場所)も分からないので、(最初の日)は全部空欄で出した。宮原先生が、「書かないと練習させない」と言った。これは部の(決まり)なので、(動かせない)。
練習を中止させられるのは、本人にとって(一番)(つらい)。(ストレス)を感じているのが、顔に出ていた。「読めないだけで走れないのは、不適切じゃないか」と、ジェイは英語で言った。言葉のせいで走る(時間)が損なわれるのは、どう考えても(おかしい)。
次の日、僕は表を(一枚)もらって、家で作り直した。十二の(項目)を、言葉(の代わりに)(絵の記号)に(置き換える)。睡眠は月と時計の絵。食事は茶わんの絵。筋肉は腕の絵。背中は人の後ろ姿。息切れは、口から出る線を三本。
水分は、(コップ)に線を一本。足首は、足の形に(丸)を一つ。前日の疲れは、下を向いた矢印。それぞれの横に、三段階の箱を(描いた)。よい、ふつう、よくない。三つは(等しい)大きさにして、どれか一つを(塗る)だけでいいようにした。
絵は、上手ではなかった。でも、筋が通っていれば伝わるはずだと(願っていた)。渡す前の晩、(歯磨き粉)のチューブを握りながら、明日(笑われたら)どうしようと(考えた)。渡すのに勇気が(必要だった)のは、(下手な)絵だったからだ。翌朝、部室でジェイに渡した。ジェイは一分見て、全部の箱に印をつけた。二度目からは、二十秒で終わった。
その(表)を宮原先生に(見せた)。最初の(反応)は、「ふざけているのか」だった。絵で部の書類を作る高校生は、先生の十年で一人もいなかった(らしい)。
そこへジェイが(来た)ので、先生の前で書いてもらった。絵を見て、三段階の(箱)を(順番に)塗っていく。二十秒で終わった。先生は絵を一つずつ(指で確かめて)、「(背中)はこれか」と聞いた。「はい」。「息切れは」。「この三本線です」。先生は少し黙って、「(元の)表より早いな」と言った。「ふざけていると言ったのは、(取り消す)」。
一週間後、(別の)一年生が「僕もその表がいい」と言い出した。日本人だけれど、朝が(遅くて)、十二項目を読む時間がないらしい。先生は、(両方)を部室に置くことにした。(選ぶ)のは本人の(自由)で、(明確な)決まりはない。妙な話だけれど、絵の表を選ぶ部員の方が、次の週には多くなっていた。
五月の(中旬)、(保健)の授業で体の仕組みをやった。配られたプリントには、処方や(症状)や(治療)といった硬い言葉が並ぶ。神経の図があって、(注射する)前の確認の表があって、(季節)によって(インフルエンザ)の流行が変わる話がある。救急車を(呼ぶ手順)も同じ一枚だ。字の多さは、部の表とよく似ていた。
ジェイはそのプリントを部室に(持ってきて)、「表と似ている」と言った。(確かに)、体の(状態)を言葉にするという点では、(類似)している。「でも、プリントの方は(読めない)」。それは僕も(半分)そうだった。全部を読もうとすると、かえって大事な行を見落としそうだ。(ばかげた)作りの紙だと思う。
その日の練習後、二人で部室のソファに(座って)、プリントの単語を十個だけ(選んだ)。部活で(実際に)使うものだけだ。「残りは、使うときが来たら(覚える)」とジェイが言って、線で(消して)いった。(捨てる)判断が速い人だ。十個の下に、ジェイが(英語)を書き、僕が(日本語)を書く。「これで、保健室で自分のことを言える」とジェイは言った。絵の表を補うものとして、部室の扉に(貼る)。練習前に目に入る(リマインダー)になった。
六月の大会の二日前、ジェイが体調チェック表の「(足首)」の欄に、よくない方の箱を塗った。僕が(見つけて)、宮原先生に(持っていった)。先生はすぐにジェイを(呼んで)、テーピングの巻き方を(変える)。練習は適度な量に(減らした)。足を(速める)走り込みと、片足での短い跳びの練習は、その日はやらなかった。大会に(備えて)、練習の量を落とした。本人は出たがったけれど、無理をして(痛み)が(生じる)より、二日休む方がいいと先生が決めた。
大会の日、ジェイは二十八分出て、十四点取った。(無理な)跳び方は一度もしなかった。(それでも)、ゴール下で相手に押し負けない(力)が(残っていた)。倒すような当たり方は、(審判)に(注意される)ので誰もしない。(試合)のあと、先生が部員全員の前で言った。「この一か月、表の記入漏れがゼロだ。十年やっているが、初めてだ」。
(それから)、僕の方を見て、「絵の表、来年も使う」と言った。それだけだ。でも、十年で初めてという言葉の方が、僕には(大きかった)。うぬぼれないように、しっかりと(息)を吸って、(下を向いた)。一人で浮かれるのは(錯覚)のもとだ。先生の目の前で紙を(守ってくれた)のは、二十秒で書いたジェイの(手)の方だった。あの二十秒がなかったら、絵の表は初日で捨てられていた。
七月、ジェイは市の選抜に呼ばれた。(別の)高校の(選手)と一緒に(練習する)。(孤立する)のではないかと心配したけれど、(その後)の話を聞いたら、すぐに全員と仲良くやっていた。持っていく荷物の中に、僕の(絵)の表の(コピー)が一枚入っていた。「ほかの学校の人にも、見せる」と言っていた。
今、部室の(壁)には、二枚の表が並んで(貼ってある)。字の表と、絵の表。(新入部員)が(入る)と、どちらを(使う)かを自分で選ぶ。ジェイは(毎日)、二十秒で絵の方を(埋めて)、体育館に走っていく。選抜から(連絡)をもらう日もあって、(戻ってくる)と、向こうで覚えた新しい(ステップ)を僕に見せる。(恐れない)性格の人が近くにいると、こちらの足も少し速くなる。一生のうちで一番走った季節だと、たぶんあとで思い出す。