七月の初め、最後の大会まで三週間になった。私は(陸上部)の三年で、種目は四百メートルだ。最後の大会は、(地元で)開かれる地区予選になる。三年間の部活の、最後の節目が(近づいている)。夕方のグラウンドは日差しに(さらされて)、トラックの白線がまだ熱を持っていた。
二年のマネージャーの小松さんは、毎日の練習の記録をつけている。小松さんのお気に入りの青い表紙のノートに、日付と天気と、その日の練習の(概要)と、一人ずつのタイムが並ぶ。(顧問)の長谷川先生は、このノートを見て大会の作戦を決める。先生は厳しいけれど、数字のないことは言わない人だ。そのぶん、作戦はこのノートに(依存している)。
その日、ノートを見せてもらって、私は首をかしげた。三百メートルのタイムが、不規則に上下している。月曜は四十一秒、火曜は三十九秒五、水曜はまた四十一秒。
一日で一秒半も速くなるのは、信じがたい。私の体の感覚はむしろ鈍いほうだけれど、どの日もほとんど同じ走りだった。ノートの中で、唯一おかしいのが火曜日だ。
「小松さん、火曜日のこれ、私のだよね」。小松さんはノートをのぞきこんで、(うなずいた)。「そうです。速かったので、うれしくて」。疑っているように聞こえるのがいやで、私は言い方を考えた。小松さんは、こういうことに傷つきやすいところがある。(部のためにも)、本人のためにも、ここは大事だった。
「速かったのは、私もうれしい。でも、もし測り方の方がずれていたら、大会の作戦がずれちゃう」。小松さんは顔を上げた。「測り方、ですか」。少し(抵抗)を見せるかと思ったけれど、小松さんはまっすぐ私を見た。(そもそも)、ストップウォッチをどうやって押しているのか、私は一度も聞いたことがなかった。
私は長谷川先生に頼んで、練習を一時的に(止めてもらった)。先生は「十分だけなら(中断していい)」と言った。三百メートルは、スタートがトラックの向こう側にある。スタートの合図は、一年生が(手をたたく)音だ。小松さんはゴールのところで、その音を聞いてからボタンを押していた。
「音を聞いてから、ですよね。(当然)だと思ってました」。小松さんは心から不思議そうだった。私は、(物理)の授業で習ったことを思い出した。音は、光よりずっと遅れて届く。向こう側からの音なら、(ほんの少し)遅れる。(その上)、風の強い日は音が流される。
火曜日は、たしか風の強い日だった。ノートの天気の欄にも、火曜日だけ、小松さんの字で「強風」と書いてある。なにしろ、旗が(真横)になびくほどの風だった。「音が遅れて聞こえたら、押すのも遅れる。押すのが遅れたら、タイムは速く出る」。小松さんは、しばらくノートを(見つめていた)。
「じゃあ、私の火曜日の記録は、錯覚だったんですね」。小松さんは声を弱めた。私はあわてて首を振った。「錯覚なのは数字の方で、小松さんのせいじゃない。風のせいだよ」。小松さんは小さく笑ったけれど、目はまだ(下を向いていた)。
私は、自分が一年生のときのマネージャーの先輩のやり方を紹介した。少し風変わりな人で、音ではなく、(合図)の手を目で見て押していた。手が(下りた)瞬間に押す。目で見る方が、音より早く、毎日同じになる。先輩の(モットー)は「耳より目」だった。
「やってみます」と小松さんは言った。私はスタート側に走り出して、一年生に、腕を大きく上から(振り下ろして)合図するように頼んだ。ゴールの方で、小松さんが(身を乗り出して)手を振った。準備ができた合図だ。手から目をそらしたりしないように、と私は大きな声で言った。
一本目は、二年の男子が走った。小松さんは(目で)手を見て(押し)、となりで一年生が、音を聞いて押した。二人は(お互い)の数字を見比べた。〇・三秒のずれは、私たちを少し驚かせた。(風のない)日でも、それだけずれる。「(明らかに)ちがう」と小松さんが小さく言った。
二本目は私が走った。走り終えて、ひざをついて(息を吸う)。(のど)が乾いて、声がうまく出なかった。小松さんが駆け寄ってきて、ストップウォッチを見せた。四十秒八。月曜日の数字とほとんど同じで、私の体の感覚とも合っていた。
「先輩、(疲れた)のに、すみません」と小松さんは言った。「ううん。むしろ、(ほっとした)」。私は深呼吸をした。少しずつ呼吸を取り戻して、ノートを受け取る。速いタイムが本物でないのは、もちろん少し残念だ。
(そのあと)、小松さんは自分から、ノートの書き方を一つ変えた。天気の欄の横に、風の強さを、弱い、(中くらい)、強いの三つで書く欄をつける。もう一つ、押し方の欄に「目」と書く。ささいなことだけれど、本当の数字は、何度でも確認する価値がある。ノートの書き方が、(徐々に)小松さんのものになっていく。
練習のあと、長谷川先生がノートを(点検しに来た)。先生も、火曜日だけ数字が顕著に速いことに、気づいていたらしい。小松さんが、(測り方)のことを具体的に話した。先生は黙って聞いて、それから自分の手帳に何か書いた。
「なるほど。今日からの記録の方が、(長期的に)見て(信用できる)」と先生は言った。「火曜日の数字で作戦を立てていたら、前半で飛ばしすぎるところだった。測り方を部員全員が同じに(認識している)ことが、いちばん大事だ」。先生にしては、非常にはっきりした(ほめ方)だった。小松さんは、私の方を(ちらりと見た)。私は、何も言わなかった。
(帰りの支度)をしながら、小松さんが私に聞いた。「先輩、最後の(大会)の目標は、何秒ですか」。優勝は無理でも、決勝には残りたい。そのためには、前半と後半の(バランスの取れた)走りが要る。三百の通過で四十秒を切ることが、(主要な)目安になる。小松さんはそれを、ノートの表紙の裏に書いた。
「(お返しに)、大会まで(ずっと)、目で押します」と小松さんは言った。その言い方が(まじめすぎて)、私は笑ってしまった。小松さんも笑った。部室の前の水道で、私は熱くなった腕を水につけて、(ふくらはぎ)を(軽く)(マッサージした)。
私が引退したら、このノートは小松さんの代の部員たちが(受け継ぐ)。小松さんは部を代表して、来年の新しいマネージャーに測り方を教える。耳より目。先輩から私に来た言葉が、小松さんを通って、また部に戻る。
今、グラウンドの西の空で、日がゆっくり傾く。小松さんは部室の机で、今日の記録の横に、風の欄の線を一本ずつ引いている。私はそのとなりでジャージを着て、(ジョギング)用の靴に履き替えている。