高3の始業式の翌日、窓側の列に机が一つ増えていた。前から数えて16番目、私のとなりの席だ。担任の森田先生が「北海道の東の町から来た、浅見ユイさんです」と紹介すると、浅見さんは(頭を下げて)、(額)にかかった前髪を(指)で直した。
森田先生は英語の担当でもある。厳しいけれど、自分で決めたことは自分も必ず守る人だ。このクラスでは月に二回、定期的に「一文音読」が行われる。共通テストの長い読解問題を、出席番号の順に一文ずつ読んでいく(方式)だ。
決まりは一つだけ、一文を(一息で)(声に出して)読むこと。先生はそれを「句点まで一息」と言う。英文の終わりの点も、先生にかかれば句点になる。途中で止まったら、その文の頭からやり直しだ。
一時間目が終わると、浅見さんはそわそわと時間割を見ていた。英語は五時間目で、その頃には読む順番も分かる。「一文音読って、何?」と小さな声で聞かれて、私はやり方を話した。浅見さんの顔が、(少しずつ)曇っていった。話さないほうがよかったのか、私には(判断)がつかなかった。
「前の学校は、ずっと黙読だったの」。ここから(遠い)町の、小さな高校だったという。英語の(点)は悪くないけれど、人前で英語を読んだことは一度もないという。「(転校した)日に、それはつらいね」と言うと、浅見さんは笑ったが、目は笑っていなかった。(自信)がない、と顔に書いてある。
二時間目のあと、森田先生が今日の問題を(配った)。浅見さんは必死にその紙を目で追っていた。本文の後ろに、図の紙が一枚(付いてくる)。ある町の(円形の)図書館を、市民が(建て直す)話だった。
(出席番号)を数えると、浅見さんが読むのは16番目の文になる。私は(うっかり)、その文に先に目をやってしまった。三行もある、本文でいちばん複雑な文だ。カンマを四つ(含む)うえに、関係代名詞が二回出てくる。
「これ、極端に長くない?」と浅見さんが言った。確かに長い。去年の私なら、見ただけで(うんざりしていた)。
順番は出席番号で決まっていて、先生が(意図的に)選んだわけではない。「誰かのせいにする話じゃないよ」と私は言った。「(ただの)(不運)」。
浅見さんは困惑した顔で、本文をにらんだ。私は少し(迷ってから)、昼休みに練習しようと言ってみた。浅見さんは(快く)うなずいた。
昼休み、私たちはお弁当を持って(渡り廊下)の(端)に行った。四月の風はまだ(肌寒い)けれど、ここなら声を(自由に)出せる。私は鉛筆を出して、あの長い文に斜線を入れていった。意味のまとまりごとに、一本ずつ。
「去年、先生に教わったやり方。一息は無理でも、斜線から斜線までなら、ほとんどの人が読めるでしょ。そこで小さく(息を吸えば)、止まったことにはならない」。森田先生は、句点の前で黙りこむのは許さないが、斜線で息を吸うのは(大目に見る)。
浅見さんは、斜線の一つ目まで声に出して読んだ。発音はきれいだった。ただ、二つ目の斜線で(詰まる)と、「やっぱり無理」と言って、問題の紙を二つに折りたたんだ。挫折するのが早すぎる、と私は思ったけれど、口には出さなかった。
代わりに、去年の私の話をした。一文音読で、同じ文を三回やり直したこと。先生はそのたびに、黙って待ってくれたこと。「あの先生、待つことにかけては(忍耐力)があるの。努力している人を急かしたりしない」。浅見さんは少し(ほっとした)顔をして、紙をもう一度(広げた)。
二回目は、斜線の三つ目まで行けた。「できるかも」と浅見さんが小さく言った。三回目で、最後の句点まで届いた。
読み終えた浅見さんは、両方の手足をぐっと(伸ばして)息をついた。私は「(本物)の一文音読だ」と言って、小さく(拍手した)。
「なんで、こんなに(付き合ってくれる)の?」と浅見さんが聞いた。私は返事に(困った)。(同情)とは違う。去年の自分を見ているような、(ほろ苦い)気持ちがあった。でもそれを口にするのは(気まずい)気がして、「お弁当、ここで食べたかったから」とだけ答えた。
五時間目、森田先生が教室に入ってくると、(空気)が変わった。(うたた寝)をしていた男子も、大きな音で椅子を引いて座り直す。音読は出席番号の一番から始まった。一人読むごとに、本文が一文ずつ先に(進む)。
十五番目の男子が、途中で二回止まった。先生は(落ち着き払った)声で「頭から」と言う。(イライラした)様子は少しもない。教室が(しんとした)。となりで、私は自分の(手のひら)が汗ばむのを感じた。教える側に回るのは、教わるより何倍も落ち着かない。
浅見さんの番が来た。最初の斜線で、小さく息を吸う。二つ目の斜線でも、もう一度。声はふるえていなかった。昼休みに使い切ったはずの(気力)が、まだ残っているように見えた。大丈夫だ、と私はそこで(確信した)。
最後の単語を言い終えると、(句点)のところで、浅見さんはぴたりと止まった。
森田先生は少しだけ間を置いた。「正確に読めている。息を吸う場所が、意味の切れ目と同じだ。(前の)学校で、音読はしていた?」「いいえ。昼休みに、教わりました」。浅見さんは私の方を見なかったけれど、鉛筆の斜線を指でなぞっていた。(退屈そう)だった後ろの列も、顔を上げていた。
「そうか」と先生は言った。「この読み方は、次の模試の前にクラスのみんなにも教えよう」。先生は「みんなにも」のところを(強調した)。こういう(褒め方)をするのは、年に何回もない。後ろの席から、(感嘆)のような小さな声がもれた。
放課後、浅見さんが私の机の横に立った。「前の学校は生徒が多くて、活気のあるところだったの。私は(社交的)なほうじゃないから、ここでは一人でいいって思ってた」。それから少し言いにくそうに、「でも、(楽しい)一日だった」と付け足した。
「(何よりも)、待ってもらえたのがうれしかった。先生にも、あなたにも」。そう言って、浅見さんは自分の問題用紙を開いた。あの文の斜線が、昼休みより一本増えていた。(小さな)変化だけれど、先生の前で読みながら、ここでも切れると気づいたのだという。
駅の改札で別れる前に、浅見さんは「ユイでいい」と言った。それから、「明日の予習、一緒にやってもいい?」と聞いた。私は(うなずいて)、手を振った。
今、私の机の上には、斜線の入った問題用紙が二枚ある。一枚は私の、もう一枚はユイの。窓側の16番目の席で、ユイは明日の本文に、鉛筆で一本ずつ線を入れている。